個性とは何か

「個性とは何なのか?」
これはわりと重要な問題である。
昨今は教育目標などにもよく出現している概念だが、「何か?」と言われて簡単に返答できるほど、単純な概念ではない。


どっかのバカは、個性を「人と違うこと。独自であること」とそのまま“解釈”し、「我々は、みんな異なった遺伝子を持っている。自分だけの体を持っている。それだけで十分個性的なんだ」と言った。
当時私は高校生で、こう言ったのは現国の教師だった。
死ねばいいと思った。


「個性がない」というのは、「自分がない」というのと同義の扱いで、なんだかとても寂しいことだとされている。
「個性」はあったほうがいい、ということを前提にして話を進める。


いきなり本題に入るようだが、「個性」というのも理解されなければ意味がない。
しかし個性は、独自性と言い換えることができるから、理解とはまたベクトルが違うような気もする。
ピカソはとても個性的であったが、当時は理解されていなかった。
芸術において素人が言われることだが、「“個性的”なのと“奇抜”なのは違う」という。
作品が「個性的」であることは最低条件だが、同時に「理解」されることも最低条件だ。
「個性的」だけど「理解」されなければならない。難しい話である。


二十世紀で最も有名なイギリスの文学者、T・S・エリオットは『伝統と個人の才能』で、こんな主張をしている。
「芸術の発達は不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅である。芸術とはこの脱個性化の過程にほかならない。」
ここでエリオットが主張しているのは、芸術は人に理解されてしかるべきものだということである。人は、大衆でなくとも。


私が思ったのは、「理解」というのは意外の難しいものであるということ。ましてや芸術のように「美しい」と実感させるのは容易ではない。その「理解させる」「美しいと思わせる」テクニックこそが「個性」なのではないだろうか。


DJをやっていて文章も書く先輩は、このようなことを言っていた。
「美しい音楽も、文章も、建築も、美しい関連性によってなる」
つまり、例えば音楽であれば、美しい音符達の繋がり方が必要だということである。
美しい短歌には、美しい言葉と言葉の連結が必要なのである。


作品を美しい完成度の高いものとするために、その素材を厳選する。素材同士の繋ぎ合いを推敲する。
その選び方・繋ぎ方に、個性が現われる。
素材が個性的なわけではない。素材は誰にでも理解できるようなそこらへんから拾ってきたものだ。
それをどう調理するか。その調理法こそが「個性」である。


それでは人としての個性とは何か?
それは、世界をどう見るか、ありきたりなことをどう解釈するか、人と同じ意見ばかり言っていないか、とそういうことになる。

「バナナブレッドのプディング」(大島弓子)

「バナナブレッドのプディング」大島弓子

【あらすじ】
主人公の三浦衣良は、高校生になっても幼稚な少女で、変わった言動ばかりする。大好きな姉が結婚して家を出ようとしているのを知って、衣良は家出し、久々に再会した幼馴染(さえこ・峠)の家に住まうことになる。
衣良は「うしろめたさを感じている男色家の男性のカーテンになりたい」と言って突然ホモを探し出すなど、迷走する。



バナナブレッドのプディング バナナブレッドのプディング
大島 弓子 (1995/09)
白泉社

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白泉社漫画文庫から出ています。
この作品から、愛の複雑性について考えてみようとおもう。


【「理解されない子ども」について】
 大島弓子の全作品で共通するのは、「理解されない子ども」の存在である。どの作品の主人公もみんな変わった(子ども独特の)世界観を持ち、理解されないから意地をはったり極端な行動をしたりしている。ほぼ例外はない。「バナナブレッドのプティング」の主人公三浦衣良は、この特徴が最も顕著に現われた主人公である。第一話のはじめに、昔の友人のさえ子と再会したときも、「空き地の草をみつあみにする遊びを今でもやっている」と言ってさえ子を驚かせていた。衣良は典型的な子どもから抜け出ることができていない少女である。
よく大島弓子の書評では、「永遠の少女性」なんて表現が使われているが、大島弓子の作品に共通するのはまさにそれなのである。「いちご物語」のいちごなんかは、子どもから大人になることができず死んでしまったし、「綿の国星」のちびねこだって、大人にしてしまったら意味がないとして中断されてしまった。そして何故そのようなテーマが彼女の作品にまとわりついて離れないのかというと、大島弓子自身がいつまでたっても「大人になりきれない子ども」だからである。いまだに、猫と一緒に感受性溢れる空想や想像をして暮らしている。猫と一日25時間サイクルで生活し、社会に対応していない。子どもの頃から、その感受性を発揮した発言を繰り返し、親からも気違い扱いされたりしたらしい。そんな彼女を理解してくれたのは大叔母のみだと言っていた。衣良もまた、親から精神鑑定を受けさせようなんて言われている。



【衣良が世界の愛を実感していないことについて】
 衣良が色んなものを怖いと言っているのは、世界から愛されている(受け入れられている)自信がないからだ。親からも否定され、大好きな姉も結婚してしまう。衣良のとっぴな言動の全ては、世界に受け入れられているという実感を充足させるためのアクションなのである。「うしろめたさを感じている男色家の男性のカーテンになりたい」なんていうのも、人から必要とされたい切実な想いがよく出ている。「人から必要とされている立場」が無ければ生きているアイデンティティーを衣良は感じられないのだ。といっても普通に、愛情が充足していて、世界に受け入れられている実感のある人なんてそうはいないのだが、親から不信がられた子どもは、世界に存在するためにそのデートルを「愛情」から「立場」に置き換え作業することがしばしばである。つまり、仕事を大量に引き受けたり、不当な扱いも許してしまったり。そうまでして人から必要とされることに固執するのである。衣良はまさしくその典型である。
 そのなかで、衣良は峠を好きになってしまう。人から必要とされることを必要としていた衣良だが、峠を好きになることで、「人から」ではなく、「峠から」必要とされることを必要とする衣良になったのだ。しかしそこで衣良は峠が「男色家である」という嘘の芝居をしていたことを知る。世界から再度見放された衣良は「沙良の赤ちゃんになりたい」と言う。沙良が大好きな衣良は、沙良の子どもであれば愛情をたくさん注いでもらえると思ったからだ。


【衣良が教授に対して殺意を持ったことについて】
 峠から必要とされていないと思った衣良は、「峠を必要としている」自分を無視して、初志(「うしろめたさを感じている男色家の男性のカーテンになること」)を再度実行に移すため教授のもとへ身をよせた。峠に関して衣良は無自覚であったのでその行動の辻褄は合っているが、自分に対しての欺瞞だった。「自分の必要なもののために自分で行動すること」は、人が自立するための必要条件だが、行動に移すのは意外に難しいし、リスクがともなう場合、人はあまり積極的にならない。それを衝動で行動させてしまうのが恋である。また、恋ないし自分が必要としていることのための行動は、うまくいかない場合がある。その理不尽とも思える現実を受け入れることも自立条件である。子どもが大人へと変化するプロセスで、殺意をともなうのはそのためである。子どもがどうしても欲しいおもちゃが手に入らなくて親を憎んだりする。殺意というのは大げさかもしれないが、反抗期とは世のままならなさに怒ることである。神話であっても、世界を形成するプロセスでは必ず親殺しや兄弟殺しの逸話が例外なく出てくる。衣良が教授に殺意を持ったのは、自分の欺瞞や欲求不満の象徴が教授だったからである。

 最後にハッピーエンドを向かえたのは、世界に享受されている実感がなく今まで奔走していた衣良が、求める相手(峠)から求められた(肯定された)ことで、根深いコンプレックスから開放されたからである。また、この作品では多くのキャラクターがそれぞれの愛情を持て余して複雑している。作中で「だれかもつれた糸をヒュッと引き 奇妙でかみあわない人物たちを すべらかで自然な位置に たたせてはくれぬものだろうか」という場面があるが、ここがなんと的確で美しいシーンだろうと思う。最後さえ子と哲学生との会話で「じゅずつなぎ思考」というのが出てきたが、ここで大島弓子は愛の複雑性をじゅずつなぎしたのだなと思った。

theme : 漫画の感想
genre : アニメ・コミック

cancamの意義

 「CanCam」を購読している女性は何を求めて「CanCam」を購読しているのかについて書こうと思う。
 私はCanCamを、立ち読みで読んだことがあるくらいだが、本屋でバイトしているため、CanCamの怪物ぶりは知っている。他の赤文字雑誌や女性ファッション誌と明らかな差をつけて購読者数1位に君臨している。


 
【モデルのわかりやすさ】
 なぜcancamは売れるのか?その直接的な勝因は、「モデルのわかりやすさ」にあると考える。CanCamといえば、蛯原友里、押切もえ、山田優の3大モデルが有名である。この3人にそれぞれ「かわいい系」「きれい系」「かっこいい系」というわかりやすいカテゴリを与えることにより、読者に強烈なイメージとわかりやすさを与える。このようなことをやっている雑誌は意外に少ない。
 例えば、「non-no」では田中美保を雑誌のイメージとして毎号大きく扱っているが、「かわいい」「キレイ」「ボーイッシュ」など様々なイメージをうまく着こなす存在として扱われている。何らかのイメージ一辺倒というよりは、カテゴライズされていない。EMIや山川未央ら売れっ子も、様々なイメージを着こなす。彼女らは読者からの強い支持を集め、しばしば教祖的な対象にされることもあるが、それは「美しいマネキン」のような役割で、手本というよりも完全に尊敬や羨望の対象なのである。対してCanCamの3人は、完全に「手本としてのモデル」である。「さえない自分を啓発していって、行き着く先はここ」という指標がCanCamモデル達なのである。CanCamは「モテる」ということをマニュアル化し、読者に具体的なアドバイスをさしのべる。そのマニュアルを具現化させたのがCanCamモデルだという扱いである。CanCamモデル達は完全に読者の教祖である。そうであるから、毎年CanCamの2月号には「CanCam Modelsカレンダー」が付録についてくる。このような付録をつける雑誌は他に見ない。また、CanCamはポージングが非常に漫画的である。“手を口元で広げておどける”しぐさなどが頻繁に出てくるが、実際にそのようなポーズをとる人はいない。誌面でのことなので、動きをつける必要があるのかもしれないが、山田優以外のみんながみんな漫画的なポージングをとるので個人的に言えば不自然である。こういったポージングもカテゴライズのための要素であると考える。手本を求める読者たちからすれば、CanCamほどわかりやすい雑誌はそうない。

【ファッションのわかりやすさ】
 「モデルのわかりやすさ」によってCanCamが何を主張したいのかというと、「ファッションのわかりやすさ」であると思う。
 田中美保が着こなすイメージは多様にあり、それは読者に「こんな着方もあるよ」という選択肢を与えている。ファッションに「選ぶ楽しさ」を見出している。しかしCanCamは選ばせない。「かわいい系を目指すのであればコレ!!」と有無をいわさず読者のファッションを提示する。そうであるために、CanCamは「ブランド」をも特定する。他誌であれば、「ボーダーニットがはやり」「ブーツが主流」ということを言って、あとは「このお店にはこんなニットがあるし、あっちの店のニットはこんなだよ」と示す。しかしCanCamは「ジルスチュアートのワンピースにアプワイザーリッシェのコートをはおってビバユーのパンプスをはいてるよ」と誇示しすぎなくらいにブランド名を前面におしだしている。そもそもだいたいの雑誌が、ブランド名をフォントサイズ8(フォントサイズ8)くらいだとしたら、CanCamはフォントサイズ11(フォントサイズ11)くらいのもので、しかも色も黒ではない。また、CanCamでは「誌上バーゲン」と開催したりしている。通販がついている雑誌は少なくはないが、着こなしの説明までついているし、やはりブランド名をおし出している。
 CanCam読者は選ぶ楽しさをファッションに求めていない。それが悪いということではない。誰もが自分のファッションに自信を持っているわけではないからである。ファッションという流動的で多様すぎる価値観は、客観性と主観性の葛藤を体現するものでもある。なかなか複雑なものであるだけに、自信のない人であれば「こんな着方もあるよ」と選択肢を与えられるのではなく、「これを着なさい!!」と具体的に提示されたほうが楽である。そうしているから、CanCamは教祖なのである。

 
【cancamの推奨する“モテ”】
 では、読者はCanCamを教祖にすることによって何を求めているのか。ファッション誌でありながら、それはファッションではない。選ぶ楽しさを見出していないからである。「自己表現」でもない。CanCamの2007年2月号の表紙には一番大きく「真冬の流行大賞発表」とある。流行と自己表現はベクトルとして真逆である。やはりCanCamは、「モテる自分の自己プロデュースマニュアル」なのである。「モテる」というのは「男の子の恋愛的視野に入る」くらいの広い意味でいいのだが、それはまず第一に外見である。自分の外見をどうしたら男の子ウケするようにできるのか。男の子ウケとはどのようで、どうしたらそうなれるのか。それを他誌よりも極端にわかりやすく、具体的に指南するのがCanCamである。
 CanCam読者はCanCamに、「モテる自分を自己プロデュースする方法」を求めている。





http://www.cancam.shogakukan.co.jp/


CanCam (キャンキャン) 2007年 07月号 [雑誌] CanCam (キャンキャン) 2007年 07月号 [雑誌]
(2007/05/23)
小学館

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theme : JJ/CanCam/AneCan/ViVi/…
genre : ファッション・ブランド

ゼミで短歌

短歌というのは言うまでもなく、57577で成り立つものだ。
先日、ゼミで5のパーツと7のパーツで分けて、みんなでバラバラに用意し、適当につなぎあわせて短歌を作った。
特に私が気に入った4首だけ挙げる。





夏の日に 街を歩いて ねころんで
想像力を 金曜5限


(※ゼミは金曜5限)





夏休み 声に耳を立て 砂糖菓子
ハプニングラブ 体操座り






雪の白 春に降る雪 まちわびた
夕焼けの中 セミの鳴き声







次はいつ 貧血になり 風になる
子どものように 鳴らない電話

theme : 短歌
genre : 小説・文学

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lamprunlamp

Author:lamprunlamp
社会学部の大学4年生です。

飲みたい。踊りたい。歌いたい。
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