恋愛とは何か

水野尚「恋愛の誕生」をふまえて、「恋愛とは何か」を論じなさい。
というゼミの先生の授業のレポート。
難しいテーマだけど、一応書きました。


【恋は愛と罪の葛藤】 
 先日、たまたまトルストイの「人生論」を読み返していると、愛と罪の解釈があった。愛は<慈悲の心による、全てを包括するエネルギー>。罪は、<自己中心的な欲求・欲望>。更に愛の大きさは、分数で表せるのだという。分母が罪で分子が愛。その答えが、その人の愛の許容量だという。
                愛
            ―――――  = 愛の大きさ
               罪
 

 恋愛とは何か?と考えると、この間で葛藤する、愛と罪の統合作業のように感じる。キリスト教やトルストイは、愛は善いもの、罪は悪いもの、と断絶してしまっている。しかし愛は一概に自己犠牲だと解釈できないし、罪とはいえ自己中心的な欲求は無くすことはできないのだから、折り合いをつけていかなければならない。恋が調子のいいときは、好きになった人のことはなんでも許せるし、なんだか宗教的な愛のエネルギーに満ち満ちて誰に対してでも優しくなれる。それに対して少しでも不安が横切ったりすると独占欲やワガママが熱っぽく暴発してしまうのも恋愛だ。恋は人を愛的にもさせるし罪的にもさせる。それは何故なのか。  


【嫉妬の方法】
 罪の代表というと、やはり嫉妬がある。「恋愛の誕生」では<嫉妬は恋の防腐剤>とある。“相手にとって自分は不足ではないだろうか”と案じることは、自分をより高めようという意志に繋がるからだ。しかし昨今、恋人間では嫉妬を<恋の防腐剤>どころか逆に判断し、嫉妬を防止させるべく<束縛>という行為におよんでいる。束縛し拘束するということは、それはぬるま湯につかる行為と同じことだろう。刺激的な恋愛は望めないが、最近はそれでいいらしい。安定志向らしい。きっと恋愛の先に結婚を見ているからなのかな、と思う。「恋愛の誕生」では、結婚したときのように“付き合っている”という<権利>をかざすとそれはただの批判になって、嫉妬の“相手に対する純粋な想い”の本質を見誤ってしまうとある。嫉妬は“相手を想う純粋な気持ち”からきているのだから、そのベクトルを誤ってはいけない。相手を束縛するのではなく、自分を高めてこそ、嫉妬の恋愛防腐剤としての最上の効果が得られるのだ。
 私は先日、自分が最も「恋愛してるなー!」と感じるとき、つまり恋愛を楽しんでいるときはどんなときかを考えてみた。すると、やはり嫉妬しているときだと思った。そして相手が、ヤキモチをやいてくれるとき。嫉妬しているときが一番燃えると思う。「恋愛の誕生」を読んで、私は間違ってはいなかったのだなと思った。


【ひとつになる】
 嫉妬は“相手を想う純粋な気持ち”から発露するとある。嫉妬はやはり独占欲から生まれる。独占欲は“ひとつになりたい”という欲求から生まれる。私はそもそも、人は最終的に“ひとつになる”ことを目的に生きていると思う。コミュニケーションもそのための手段だ。私たちは人と関わっていくうえで同調し同情し、感情移入し、かかわりを深めていく。<愛>というのは全てを包括するエネルギーだ。恋愛はそれよりも自我性が強く、不完全な自己をもう一人の相手で補うことによって、完全な世界を補完しようという試みなのではないだろうか。愛は対象を全体に広げるが、恋愛は個人と個人の小さな世界を対象としている。愛は自分のなかの客観的な世界を補完しようという試みのように感じるが、恋愛は自分の主観的な世界を補完しようとしている。だから自己中心的(罪)な面がある。恋愛は相互陶酔といえるような、奇妙な一体感がある。それはセックスにも反映するし、会話をしていてもある。
恋愛は自分ともう一人によって完全な世界をつくりあげることを目的とする。そのためには、感性と感覚を鋭くさせ、感情の純度を高めていくことが必要である。その世界は至福と万能感を私たちにもたらしてくれる。


【救済でありご褒美である恋愛】
 「恋愛の誕生」では、恋愛の本質は<自己の人格を向上させること>とある。上記の<個人と個人の補完>はそれとどういう繋がりがあるのか。
 これは私の話になるが、私は恋愛は、<人生の救済措置>的なものと捉えている。私はこれまで5度ほど、いわゆる“愛の神にそそのかされた”状態に陥ったことがある(軽い、一過性のヒトメボレも含む)。そのときの共通点を挙げると、全て“やる気のない・モチベーションが下がりまくった”時である。受験のときであったり、集団にうまくなじめないときであったり、面倒くさくてやりたくないときなど。そういうときになぜか突然ヒトメボレなんてしてしまって、「自分の良いところを見てもらおう」と頑張る。気分で判断すると、すべて窮地的状態に陥ったときに、私は恋をするのだった。実際そうして物事はうまく進む。これは<人格の向上>といって差し支えない働きだ。<人格の向上>のために<至福と万能感>というご褒美がある。だから私にとって恋愛は、落ちることに関しては<救済措置>であるし、相思相愛のセックスなんかは<ご褒美>にあたる。



【最後にひとりごと】
 最近ではこんなに「恋愛、恋愛」と溢れかえっているが、「恋愛の誕生」によれば<恋愛>の概念自体が始め無かったということに驚いた。それまでは肉体に対しての耽溺としてのみ取り扱われており、12世紀フランス文学がその精神的な概念を発見したという。このことは非常にエポックメイキングだ。どうやって発見したかと考えると、エロイーズのくだりがあるが、やはりセックスが良くて、その余韻から精神性を発見したのではないかと思う。女性があれほどまでに赤裸々に、昔のセックスを思い懐かしむというのはとても良かったのではないだろうか。あのゼミの日以来、他人の、ことに文化の違う人々のセックスはとても興味があります。
日本でも源氏物語なんかでは、恋心を募らせるにしても、肉体の甘美とイコールだったように思う(ちなみにセックスはすごく焦らしで、愛撫が入念にされていた)。江戸時代の「春色梅児誉美」も愛情表現というとセックスだった。「かぐや姫」は女性優位で宮廷風恋愛にちょっと近いかも!?と思ったが、忠誠との葛藤や秘密、かぐや姫からの愛情などが欠けていた。
 『「恋愛」の誕生ノート』では、恋愛が文化として満足に扱われていないことを疑問点としていたが、全くそのとおりだ。心理学との境界が曖昧だとか、多様すぎる、主観的すぎる、不可視である、非効率的である、生産性に欠ける、等と判断されているためか。しかし恋愛観は日々流動している。「スローセックス実践入門」に代表されるセックス指南本も多く見られるようになり、そのような時流も遠くない気がする。



【課題】
 ここまで考えて、私は本質的な恋愛という考え方を得たわけだが、疑問というか課題として残るのは“本質的な(洗練された)恋愛というのは、どうしたら長続きするのか”というものだ。“長続き”という観念自体が日本的だと思い知らされる。フランスであればきっと新規変更路線なのだと思う。日本はどうしても“運命の一人”みたいなロマンチックラブにはまりすぎている。とはいえ、幸福な関係が長く続いて悪いことはない。実際、結婚はそういったシステムだ。互いに嫉妬し続ける、くらいしか回答は思い浮かばなかった。是非ご意見をうかがってみたいです。

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Author:lamprunlamp
社会学部の大学4年生です。

飲みたい。踊りたい。歌いたい。
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